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column009【TATSUYA氏】

ページID:0075526 更新日:2023年5月26日更新 印刷ページ表示

音楽シーンにおける郡山モデルを作りたい!

TATSUYA氏

音楽シーンに本格的に関わるようになって20年近く、これまでの経験を踏まえて「音楽都市こおりやま」で独自モデルを創ることが今の私の目標の一つです。

音楽に本格的に関わるようになったのは、まだ10代のころです。
地元横浜のショッピングセンターで、はじめてヒューマンビートボックスのパフォーマンスを見た時の衝撃を今でも昨日のことのように覚えています。
将来への不安を抱えて生きていた自分に、ヒューマンビートボックスが希望を与えてくれた瞬間でした。

その日から独学でヒューマンビートボックスの技術を磨き、国内外でパフォーマンスを続ける日々が始まりました。
その日々の中で、ヒューマンビートボックスには、人種や国籍、性別、年齢といった人と人の間にある見えない障壁を取り除き、ボーダレスな社会を実現するチカラがあるということを学びました。

その経験から、日本においてもヒューマンビートボックスの文化を根付かせたいと、東日本大震災よりも前の2009年に一般社団法人日本ヒューマンビートボックス協会を立ち上げ、日本一決定戦であるJapan Beatbox Championshipを開催したり、教育や福祉の分野と連携しながら全国各地で活動したりと、ヒューマンビートボックスの可能性を模索し続けてきました。

その一環として、郡山市内のとある小学校で、ヒューマンビートボックスのレッスンを行うようになったのが、郡山市との出会いでした。
当時は、ヒューマンビートボックス自体の価値を高めることが中心であり、オリンピックとパラリンピックの垣根を越えた競技として広げていくことなど、その価値を証明することを目標に掲げ活動していましたが、新型コロナウイルス感染症のまん延により、活動が制限されたことよって、ヒューマンビートボックスだけではなく、エンターテインメント性が高い音楽やダンス、アート、スポーツが、社会にとってなぜ必要なのかというものを、これまでの自身の経験も踏まえて、伝えていきたいと考えるようになりました。
その活動のフィールドを郡山市と定め移住してから、間もなく3年が経とうとしています。

移住のきっかけは、今でも全国各地でパフォーマンスを行う私にとって、郡山市が交通の要衝として最適だったからというのもありますが、一番の決め手は、東日本大震災以前から交流があったこと、そして何よりも「楽都」を掲げているということでの活動のし易さがありました。
しかし、その反面、郡山市内の各種イベントにおいてパフォーマンスをさせていただく中で、感じた課題は、「なぜやっているのか」「伝えたいことは何か」「参加者に何を持ち帰ってもらいたいのか」という本質的な部分が欠けているということでした。
だからこそ、主催として地元のアーティストや団体さんと共にイベントを開催する際は、地域の清掃活動と音楽を掛け合わせるなど、参加者だけでなく主催者側にも 「気づき」を得てもらえるかどうかということを大切にしています。

また、アウトプットしたことで得られる「気づき」こそ”学び”であり、「気づき」があるからこそ、何をインプットすべきかが見えてくるとも考えています。
私にとってヒューマンビートボックスがそうであったように、音楽が、皆さんに「気づき」を与え、暮らしを豊かにすることができるようになったとき、郡山市が真に「音楽都市こおりやま」になるのだと信じています。
そのためにも、国内だけでなく、国外の様々なエンターテインメントシーンに触れてきた経験も踏まえて、音楽やダンス、アート、スポーツといったエンターテインメントを通じて、子どもから大人まで、多くの方々に「気づき」を与えられる機会と、「音楽都市こおりやま」オリジナルのスタイルを生み出すことに挑戦し続けます。

TATSUYA氏   TATSUYA氏

TATSUYA氏

 

楽都郡山のイメージ図