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田村町の地名の由来

ページID:0001871 更新日:2021年12月2日更新 印刷ページ表示

田村地方には坂上田村麻呂の伝説が数多く残されていて、それが地名の由来にも深く関与しています。

坂上田村麻呂

平安時代の武官。793年に陸奥国の蝦夷(えみし)に対する戦争で副将軍の一人として功績を上げました。その後征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降しました。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされていました。

田村麻呂の出生伝説

国見山で大武丸が反乱を起こしたので、刈田丸(「刈田麻呂」とも)が征伐に来た。陣中に怪しい光が差し込むので、その光を頼っていくと、木賊田村の清水で根芹を摘んでいる三国一の醜女が居た。刈田丸はその女を陣中に伴うと、玉のような男の子が生まれた。まもなく、刈田丸は大武丸を征伐して都に帰っていった。男の子は成人して都に上ると、父である刈田丸と対面した。これが田村麻呂で「田村」は出生地にちなんでつけられたといいます。

蝦夷討伐後

(蝦夷とは、日本列島の東方、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々)

坂上田村麻呂が蝦夷追討の際に守山城を築き、蝦夷掃討を奏した地であり、田村麻呂の子である右兵衛督浄野を陸奥出羽按察使(むつでわあぜち<地方監督官>)として守山城に遣わした。その四世の孫、古哲の時より田村氏と称して、爾来、子孫相次ぎ田村荘を治めた。

田村荘司(庄司とも)

田村地方は、『古今著聞集』によると、秀郷流藤原氏の前刑部太夫であった仲能朝臣の領有地で「田村荘」として歴史に登場する。ここでは坂上田村麻呂の子孫が代々田村荘司と称して権勢を奮ったといいます。

三木宗策「威容抱慈(坂上田村麻呂像)」の写真
「威容抱慈(坂上田村麻呂像)」

三木宗策

大正13年(1924)

<郡山市立美術館蔵>

坂上田村麻呂にゆかりのある「田村神社」の写真
田村神社

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