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安積開拓に懸けた先人たちの夢

ページID:0006947 更新日:2022年5月27日更新 印刷ページ表示

先人たちが遺してくれたもの

一尺を開けば一尺の仕合わせあり一寸を墾すれば一寸の幸あり

明治初期に撮影された一枚の写真。

写真のなかで、凛(りん)とした姿で、開成沼(現在の開成山野球場と陸上競技場)の畔(ほとり)に佇(たたず)む一人の男性。

この先人は、このとき何を想い、そして、どんな未来を夢見ていたのでしょうか。

平成19年で、安積開拓(あさかかいたく)が国営事業となり、第一陣として、九州の旧久留米藩士族が入植してから130年が経ちました。

先人が私たちに遺(のこ)してくれたこの大地。

先人たちの偉業に想いを馳(は)せる。

安積開拓の舞台となった開成沼(現・開成山公園)の畔に佇む先人の写真

郡山発展の礎となった安積開拓

明治初期、戊辰(ぼしん)戦争に敗れ、賊軍の汚名を被った東北地方は、「白河以北(しらかわいほく)一山百文(ひとやまひゃくもん)」と蔑(さげす)まれました。

明治政府が東北地方の開発を直接国費で実施するようになるのは、明治10年頃(ごろ)からで、その第一号として、この安積の大地が選ばれました。これが世に言う「安積開拓」です。この事業により郡山発展の礎(いしずえ)は築かれたのです。

この、政府による施策が決まる前から、地元では福島県と開成社による大槻原(おおつきはら)<現在の開成館周辺地区>の開拓が進められていました。

安積開拓の始まり

大槻原開拓は、明治5年安場保和(やすばやすかず)が県令(現在の知事相当職)として、福島県に赴任したときから始まります。前年、安場は、岩倉具視(いわくらともみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとアメリカに渡り、広大な開拓を目の当たりにしました。その安場は、県の典事(課長職)に中條政恒(なかじょうまさつね)を任命し、安積開拓の全てを任せます。

北海道開拓を夢見ていた中條は、なし得なかった北海道開拓に描いた夢を大槻原におきかえて、この開拓に情熱を注ぎ込みました。

まず中條は、安場とともに、旧二本松藩士族に移住を勧めました。そして、これに応じた二本松士族が大槻原の一角(現在の安積高校前の通り)に移住したところから、壮大な開拓事業の第一歩が踏み出されました。

しかし、二本松士族の移住や農民への呼びかけだけでは、目的を達成できず、中條らは、民間参加による開拓も同時に進めます。それは、江戸後期から宿場町として栄えていた郡山宿の富裕商人の出資による開拓会社を組織し、多くの移住者を募集するというものでした。

安場、中條が理想を高く掲げて開拓に尽力しても、商人には、「商売以外に手を出すな」という家訓があり、開拓に乗り気ではありませんでした。

それでも中條は、「各富豪(ふごう)ナリト雖(いえど)モ邑(むら)ノ為(た)メ国(くに)ノ為メ尽(つく)ス所(ところ)ナクンバ守銭奴(しゅせんど)ノ侮辱(ぶじょく)免(まぬが)ルベカラズ」と、国づくりや町づくりは、今の日本に必要なことであり、将来は必ず報われると根気強く説き続けました。

そして明治6年、中條の情熱に心を動かされた阿部茂兵衛ら25人の富商が開成社を結成し、県と開成社の共同による安積開拓が始まったのです。

開拓の先見者「安場保和」の写真
安場保和

安積開拓の父「中條政恒」の写真
中條政恒

安積開拓の成功の礎を築いた商人たちの組織「開成社」の写真
開成社

国を動かした地元の想い

郡山に転機が訪れたのが、明治9年。

この年、明治天皇の東北巡幸に先んじ、下検分のため、時の実力者であった内務卿(ないむきょう)の大久保利通が郡山と福島を訪れました。

これを絶好の機会と捉え、中條は、福島の大久保の宿舎を訪ねます。

ここで中條は県の事業として、開拓が立派にできたこと、さらに安積野全域に開拓を拡大するために、猪苗代湖の水をこの地に引くことを国費でやって貰(もら)いたいと、強く要望しました。

もともと殖産興業と士族授産が持論の大久保と中條の考えは一致し、この出会いが、国営安積開拓と疏水開削(さく)のスタートとなりました。

国営安積開拓・安積疏水の後ろ盾となった時の実力者・大久保利通の写真
大久保利通

大久保の遺言と安積開拓

大久保の後ろ盾により、明治11年3月、国営開拓第一号事業として、国で「安積開拓」の予算が計上されたのです。しかし、2か月後の5月、大久保利通は、暗殺により突如この世を去ります。

この日の朝、生前の大久保が最後に会っていたのが、大久保邸を訪れていた当時の福島県令・山吉(やまよし)盛典(もりのり)でした。

この会談で山吉は安積開拓が正式に実施されることを知り、それまで、安積開拓に対して乗り気ではなかった山吉でしたが、この会見を記した「済世遺言(さいせいいごん)」に大久保の遺言として安積疏水開削(さく)の効用を記し、関係閣僚に送りました。

大久保の死後、政府の安積開拓への関心は薄れていましたが、中條の熱意により、次の内務卿・伊藤博文らに引き継がれました。

そして、明治12年、オランダ人技師ファン・ドールンの調査結果に基づき、政府は安積疏水の開削(さく)を最終的に意思決定したのです。

安積開拓が遺したもの

国営安積開拓により、当時約5千人のまちの周辺に、9藩から約500戸、2千人余の人々がやってきました。この入植の第一陣が、久留米士族です。これを機に、岡山、土佐、鳥取、二本松、棚倉、会津、松山、米沢の各藩から人々が集いました。しかし、耕作技術の未熟さや土地が肥沃(ひよく)でないことなどの状況が重なり、収穫は驚くほど低く、移住士族は困窮を極めました。中には、負債がかさみ、家財道具を売り払い、一家離散した人々も多くいました。このような苦難を乗り越えて、開墾は続けられ、安積疏水の開削(さく)により、猪苗代湖の豊かな水に潤された郡山は次第に肥沃な大地へと変貌しました。そして、疏水による電力、開墾による桑畑のおかげで、繊維産業が栄えるとともに、豊富な米をはじめとした農産物にも恵まれ、全国各地から人々がこの地に集い、瞬く間に県下を代表するまちへと奇跡的な発展を遂げました。その後も、大正、昭和と時代を経て、郡山は、多くの人々を惹きつけ続けてきました。もともと5,000人だったまちが、現在、約34万人を誇り、東北地方をリードする中核都市にまで飛躍的な発展を遂げたのです。先人たちが、この地の未来に見た夢。私たちは今、先人たちの夢見た豊かな大地で生きています。先人たちが、不屈の精神で心血を注ぎ築き上げた自然の恵み豊かな大地に、今、この時代に生きる私たちの息吹を加え、次の世代につないでいく。郡山市は、そんな気質をもった人々が集うまち。

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