ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 文化スポーツ部 > 国際政策課 > 「サダコの折り鶴」寄贈

本文

「サダコの折り鶴」寄贈

ページID:0004250 更新日:2021年12月2日更新 印刷ページ表示

サダコさんの「折り鶴」を寄贈いただきました

平成27年8月21日(金曜日)に特定非営利活動法人SADAKO LEGACY(サダコレガシー)からサダコさんが実際に折られた鶴を寄贈いただきました。折り鶴は中央公民館に常設展示してあります。

写真

(左)寄贈された折り鶴、(右)中央公民館に常設されている折り鶴の展示

寄贈された鶴の写真展示全体の写真

展示場所

中央公民館1階正面玄関入り口右手奥

サダコの折り鶴展示場所の中央公民館1階フロア案内図の画像

佐々木サダコさん(1943~1955)について

佐々木禎子(ささきさだこ)さんは、広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった原爆の被爆者のひとりです。1945年8月6日8時15分、爆心地から1.6キロメートルの自宅で2歳のとき被爆し、小学6年生12歳の時に亜急性リンパ性白血病と診断されて、広島赤十字病院に入院しました。お見舞いに送られた折り鶴の意味を知ってからは、「千羽鶴を折れば、願いが届く」と祈りながら、同年8月初旬から薬包紙や見舞い品の包装紙で鶴を折り始めました。当時、折り紙は高価なもので、折り鶴は薬の薬包紙や包み紙のセロファンなどで折られ、その数は約千六百羽に及びます。自分が辛い境遇にありながらも、明るく強く、周囲の人を思いやりながら生きたサダコさんの感動的な姿を伝えるエピソードは数多くあります。サダコさんは、願いむなしく原爆症で12歳の人生を閉じました。「その悲しみと平和の願いを世界に」と、サダコさんの級友たちが「原爆の子の像」の設立を呼びかけ、1958(昭和33)年のこどもの日(5月5日)に広島平和記念公園内に完成しました。

写真

生前の佐々木禎子さん

佐々木禎子さんの写真

サダコの折り鶴がつないだ絆

2001年9月11日に発生した米国同時多発テロの被災者等で結成された「911家族会」等が、2012年郡山市に、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故からの復興の祈りをこめた折り鶴のモニュメントを寄贈しました。このモニュメントの寄贈は、同時多発テロの後、サダコさんのお兄さんである佐々木雅弘さんが追悼施設であるトリビュートWTCビジターセンターへ、平和への祈りをこめて遺品の折り鶴を贈ったことが縁となり、実現したものです。モニュメントは、サダコさんが祈りを込めて折った折り鶴をモチーフにし、テロの被害に遭い崩壊したニューヨークのワールド・トレードセンター跡地から取り出された鋼材で作られました。復興の折り鶴は、2012年10月25日に贈呈式・地鎮祭が行われましたが、その日は奇しくもサダコさんの58回目の命日でした。12月23日、開成山公園の一角に、高さ1.7メートルの白御影石の台座に「サダコの折り鶴」を載せた復興の折り鶴のモニュメントが完成しました。このような縁から、サダコさんのご遺族から郡山市に遺品の折り鶴を寄贈いただけるという申し出をいただきました。復興の折り鶴をめぐる一連の出来事は、911家族会や日米のロータリークラブ、サダコさんのご遺族、米国の様々な団体・機関の協力があって実現したものです。東日本大震災以来「絆」という言葉が多く使われるようになりましたが、サダコの折り鶴は、復興の願いを込めた「絆」を象徴するものと言えるでしょう。

写真

開成山公園「復興の折り鶴」

設置場所

開成2丁目公園内

開成山公園「復興の折り鶴」の写真復興の折り鶴の地図の画像