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旧郡山の歴史

ページID:0003570 更新日:2021年12月2日更新 印刷ページ表示

古代から人々が行き交う地の利があり、現在も国道4号・49号が東西南北に行き交っているほか、東北新幹線や東北自動車道、磐越自動車道が行き交う交通の要衝となっています。明治期、県と民間の力で進められた安積開拓事業(大槻原の開拓)に始まり、政府により国策として進められた猪苗代湖から水を引いた大事業「安積疏水」や全国各地から士族が移住してきた「国営安積開拓」。先人は、この郡山の地に無限の可能性を見出しました。その後、猪苗代湖からの水により潤った安積(あさか)の地「郡山」は、農業の発展はもちろんのこと、疏水を利用した水力発電による電力などの影響もあり、養蚕やタバコなどの産業や工業が発達し、都市化が進みました。

しかし、その反面、無計画に住居が乱立し、無秩序な街並みが形成されつつありました。この明治後期から大正にかけては、まだ日本に都市計画という概念が確立していない時代。そのような時代に、郡山では民間の力により、耕地整理法を利用した日本初で唯一の都市計画が成し遂げられました。そして、大正13年9月1日、全国99番目の市として「郡山市」が誕生。

昭和になり、第2次世界大戦により、壊滅的な被害を被った「郡山市」の戦後復興期、焦土の中から生まれた音楽への市民の熱意は大きなうねりとなり、市民運動へと発展。その物語は映画化されるなど、「東北のウィーン」と称されるまでになりました。(音楽都市への道のり)

このような民間の力が土台となり、全国から多くの人々が集い、東北をリードする中核市にまで発展。現在も、開拓者精神(フロンティアスピリット)を持った人々が集うまち「郡山」。県下随一の活気があふれるまちです。

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