本文
安積疏水
近代日本の疏水技術の先駆け「安積疏水」
日本三大疏水の一つ「安積疏水」
安積疏水(あさかそすい)は、水利が悪く不毛の大地だった郡山の安積原野に猪苗代湖からの水を引いた大事業。
疏水とは、潅漑や舟運のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させることをいいます。農民たちが二千年にわたって築き上げてきた疏水の総延長は、国内だけで約40万kmという途方もない長さ。
実に地球10周分に相当する距離となります。この安積疏水の開削(さく)は、明治12年から始まった国直轄の農業水利事業の第一号。
当時、日本の技術者として最高位の職にあったオランダ人技術者ファン・ドールンが政府の命を受け、実地調査を行い、その調査の結果、安積疏水の開削(さく)を政府に決断させました。
そして、3年の年月を費やし、延べ85万人の労働力を注ぎ込み、総経費40万7千円(現在の貨幣価値に換算すると約400億円)を投じ、明治15年8月、幹線水路の延長52キロメートル、分水路78キロメートル、トンネル37か所、受益面積が約3千ヘクタールという安積疏水が完成しました。日本三大疏水の一つであるこの安積疏水は、疏水百選<外部リンク>にも選出されています。
十六橋水門とファン・ドールン
安積疏水の工事は、猪苗代湖の水を調整するこの十六橋水門から始まりました。
安積疏水開削(さく)当時の十六橋水門
現在の十六橋水門(土木学会選奨土木遺産)
明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもと、この安積疏水の計画が決まるころから、封建制度の廃止により職を失った旧武士のうち、全国9藩から約2,000余の人々が、当時約5,000人の人口の郡山村の近隣に移住し、本格的な国営安積開拓が始まりました。この安積疏水と安積開拓により、郡山市は、急速な発展を遂げることになります。
ファンドールン
今も十六橋水門を見守るファン・ドールン<外部リンク>
ファンドールン銅像の右足をみると、足先がコンクリートで後で付け加えられたのがわかります。これには、逸話があります。第二次世界大戦の戦時中、原料供給のため、各地域の銅像が供出されていました。
しかし、このファンドールンの銅像は、初代の安積疏水土地改良区の理事長であった渡辺信任の指示のもと、地元農民たちの手により、隠されました。戦後、敵国であったオランダ人の銅像を大切にしたこの行為が、「隠されたオランダ人」として、全国的に有名となり、オランダでも大きく報道されました。
これにより、ファンドールンの生誕地であるオランダのブルメン市と郡山市の友好関係が築かれ、昭和63年に姉妹都市となりました。農業水利として行われた安積疏水と安積開拓により、藩政時代に「安積三万石」といわれたこの地方は、猪苗代湖の清らかな水により潤い、肥沃な大地に生まれ変わり、現在「三十万石」の全国的にも最も美味しいお米がとれる産地の1つにまで変貌を遂げました。
郡山で取れる「ひとめぼれ・こしひかり」は「あさか舞」という愛称で全国の皆さんに親しまれています。
また、農業以外にも安積疏水は、電力の供給源(日本で最も早い時期の長距離水力発電所「沼上水力発電所」)として利用され、製糸業の発展をもたらすとともに、その後の化学工場の進出をもたらし、現在「経済県都」と呼ばれる郡山の礎をつくりました。
今も市民に愛され続ける安積疏水
麓山の滝
当時の麓山の飛瀑
現在の麓山の滝
駅西口広場のモニュメント
江戸時代末期(1824年)、郡山が宿場町に昇格した記念としてつくられた郡山初の公園「麓山(はやま)公園」に、明治15年、安積疏水の通水を記念して「麓山の飛瀑」がつくられ、政府の岩倉具視右大臣などが出席し、盛大に通水式典が行われました。その後、昭和8年の大改修、平成3年の復元を経た現在の「麓山の滝」は、平成14年に国の登録有形文化財となりました。平成13年に新たに完成した郡山駅西口駅前広場には、この安積疏水の偉業を未来に伝えるため、麓山の滝のモニュメントをつくりました。
今も昔の偉業を伝える水橋(三穂田町)
水橋をモチーフにしたモニュメント水・緑公園<開成山公園の南>
まちを流れる安積疏水を市民の憩いの場所へと蘇らせたせせらぎこみち
南川渓谷
安積疏水は今も郡山のまちに潤いをもたらし、皆さんの憩いの場として、愛され続けています!