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『郡山の歴史(2014年10月発行)』 《原始》

4 質の高い教育をみんなに
ページID:0064858 更新日:2023年3月31日更新 印刷ページ表示

1 郡山に住み始めた人びと

 

一 縄文時代以前

一九四六(昭和二十一)年、当時二十歳の相沢忠洋は、群馬県新田郡笠懸(かさかけ)村(現・みどり市)の切通(きりとお)しの赤土(関東ローム層)の中から黒曜石(こくようせき)の破片を発見した。火山の噴火が多く、人間が住めるような自然環境ではないと考えられていた、火山灰が積もってできた層で発見したのである。相沢はその三年後、この地層から今度は黒曜石で作られた石槍を見つけた。この発見によって縄文時代を遡(さかのぼ)る文化の存在が確実となった。いわゆる「岩宿(いわじゅく)の発見」である。

旧石器の存在が明らかになると、全国でこの時代の発見や発掘が相次ぎ、福島県でも、岩瀬郡鏡石町の成田遺跡で一九四七(昭和二十二)年に発見されていたナイフ形石器や石刃(せきじん)が旧石器とわかり、一九五五(昭和三十)年に公表されている。

 

二 石の文化

日本の歴史で一番長かった旧石器時代は、今から約四万年前から、土器を使い始める約一万三〇〇〇年前までの間、おおよそ三万年間は続いた。この時代は最後の寒冷期後半にあたっていて、日本列島の年平均気温は五~七度ほど低かったと推定されている。この気候は、現在の北海道網走(あばしり)市付近と類似するとされ、今は絶滅(ぜつめつ)したマンモスやナウマンゾウなどの大型ほ乳類が生きていた。

長い時代であるにもかかわらず、発見されるものや判明したことは決して多くはない。それは、木や骨あるいは皮製品などの有機質(ゆうきしつ)が、酸性の土壌(どじょう)によって分解されるからであり、旧石器時代の遺跡で出土するのはほとんどが石で作られた道具なのである。また、移動生活をしていたために、発見の機会も少ないと考えられている。

 

三 石器研究の進展

旧石器時代は、研究材料のほとんどが石器である。同じ形状の石器を分別することで、当時の人々は、使用目的によって原石を打ち欠いて決まった形に作っていたことがわかり、石器の種類が見極められるようになってきた。また、遺跡から出土する剥片(はくへん)を接合することで、どのような石をどのように打ち欠いて最終的な石器が出来上がるのかを明らかにするなどして、石器を作る技術の研究も進められてきた。

これらの研究で、現在までに日本列島で確認されている旧石器は、後期旧石器時代と呼ばれている時代に属し、初めの頃には、部分的に磨(みが)かれた石斧(せきふ)(局部(きょくぶ)磨製(ませい)石斧(せきふ))や台形の石器が主流で、次に切る道具のナイフ形石器が多く使われた時期、尖頭器(せんとうき)と呼ばれる槍先(やりさき)が加わる時期、木や骨に装着して使用された細石刃(さいせきじん)が主流となる時期を経(へ)て、土器が出現する縄文時代に移っていくという過程が明らかになっている。

 

四 石器の種類

日本における後期旧石器時代の幕を開けた時期に特徴的な石器として、台形やペンの先のように加工された小型の石器と局部磨製石斧がある。前者は、突き刺す、切るための石器と考えられている。後者(こうしゃ)は、当初は木材の伐採(ばっさい)・加工などに使用され、摩耗すると研ぎ直すのだが、研ぎ直しにより石器自体がだんだん小型になるため、そうなったものは、皮なめしなどの作業用に転化したのではないかと推定されている。この局部磨製石斧は、後期旧石器時代の後半には突然姿を消す道具で、これは木材の伐採がなくなったことを表し、謎とされる。ただし、東北では、後期旧石器時代の終わり頃にも使われていたようだ。

次の時代を画するナイフ形石器は、剥片の鋭い縁辺を一部残し、基部(きぶ)あるいは側縁に急角度の加工をした石器で、文字どおり、切ったりあるいは刺したりする道具と思われる。

尖頭器は、木の葉のような形に加工された石器で、突き刺したり切ったりする道具と考えられている

 

五 旧石器時代の生活

旧石器時代には、まだ土器が発明されていないので、煮て食べることはできなかった。しかしながら、たとえば喜多方市(旧・高郷村)塩坪(しおつぼ)遺跡では、焼けた自然石が集まった礫群(れきぐん)が発見されている。石は細かくはじけたり、くすんだ色をしていて、熱を受けたものである。これは、後期旧石器時代の遺跡ではしばしば見られる遺構で、石を熱して水を沸騰(ふっとう)させて料理する、蒸(む)し焼きをした痕跡(こんせき)と考えられている。また、近年の発見では、動物を捕獲(ほかく)するときに利用する落とし穴などもある。仙台市富沢(とみざわ)遺跡では、約二万年前の樹木(じゅもく)が発見され、焚(た)き火の跡や石器もまとまって出土した。現在は草原に針葉樹(しんようじゅ)がまばらに生えていた当時の姿が復元されている。

 

六 郡山の旧石器人

郡山市域の旧石器時代遺跡から出土する石器は、田村町宮田A遺跡・同じく田村町の正直C遺跡、西ノ内の郡山館遺跡・安積町の荒井(あらい)猫田(ねこた)遺跡・熱海町の熱海遺跡など、主に石器を作るための元になった石で、しかも一点ないし二点の出土が多い。そのような中で、田村町守山の弥明(みみょう)遺跡(いせき)では、複数の石器がまとまって出土している【】。出土した石器はすべて頁岩(けつがん)製で、ナイフ形石器が三点・穴を開けるのに使われた角錐状(かくすいじょう)石器が一点・動物の皮から肉を掻(か)き取ったり、なめしたりするのに使用されたと考えられる、円形のエンドスクレイパーが一点などであり、約二万年前の石器と考えられている。切る、削る、穴を開けるなど、石器が多くの道具に分かれた、後期旧石器時代後半の特徴をもった資料である。また、複数の石器が一ヵ所で出土したことから、この遺跡が他の遺跡と異なるのは、たまたま石器の材料が持ち込まれたのではなく、動物などの捕獲(ほかく)と加工そして、ある程度の滞在(たいざい)が考えられる遺跡であることである。

このような石器を携(たずさ)えて、郡山に住んだ旧石器人も季節に応じた食料を求め、植物を採集したり動物を捕(と)ったりしながら移動生活をしていたのであろう。

 

▽図:後期旧石器時代の石器の変化 [その他のファイル/1.74MB]

▽図:弥明遺跡の石器 [その他のファイル/4.56MB]

(柳沼賢治)

 

2 移動から定住生活へ

 

一 環境の変化

今から約一万三〇〇〇年前になると、日本列島は温暖化が進み海面が上昇した。旧石器時代の最も寒冷期(約二万年前)の海水面は、現在より約一二〇mも低かったと考えられている。ところが、縄文時代前期(約六〇〇〇年前)になると、関東地方の海水面は現在より二mも高くなり、平野に深く海が入り込んだ。

また、旧石器時代には針葉樹(しんようじゅ)が目立っていたが、縄文時代になると、日本列島の特に関東地方や東北地方では、ナラやブナなどの落葉(らくよう)広葉(こうよう)樹林(じゅりん)が広がり、ナウマンゾウやオオツノシカなどの大型獣が相次いで絶滅し、代わってニホンシカやイノシシなどが大型の部類になった。このような植生の変化によって木の実などが人びとの主なカロリー源となり、動物相(その場所に生きる動物の種類)の変化は、捕らえるための技術の開発へと進んだ。

このように人びとを取り巻く環境の変化は、季節ごとの食料が得られる一定の範囲で活動する、定住生活につながった。

 

二 縄文時代の住まい

縄文時代の人びとは、直径あるいは一辺が四~五mないし七m程度の、地面を掘りくぼめた半地下式の竪穴住居をつくり、川沿いの高台などに住んでいた。住居の中にはさらに数ヵ所の小さな穴を掘り、そこに丸太を立てて上屋を組み立て、屋根は木の枝や茅(かや)で葺(ふ)かれた。冬には暖かく夏は涼しい竪穴住居に四~五人の家族が住んでいたと推定されている。縄文時代にはこのような住居が集まって集落を形成していたのである。

一万数千年間続いた縄文時代は、緩やかに時が流れ変化に乏(とぼ)しい時代と考えられがちであるが、つぶさに見ていくと、集落の構成や住居内部の構造など一様ではない。それは、取り巻く環境が、時期や地域ごとに違っていたからであろう。

大槻町の大槻八頭(やがしら)遺跡(いせき)(縄文早期、約六五〇〇年前)では、長方形や楕円形の竪穴住居跡で、土間の中央付近には、火を焚いた炉跡が赤く残っていた。炉は、煮炊きに利用されたほか、暗いときの明かりになったり、冬には暖房の役目をもっていた。

この時期の集落では、竪穴住居が濃密に分布するというものではないが、数棟が一ヵ所に集まって生活していた。

 

三 人口の増加と集落の拡大

今から約四〇〇〇年前~五〇〇〇年前の中期は、縄文時代で最も栄えた時期である。東日本では集落が急激に増加し、その規模も大きくなる。

中期後半~末にかけて営まれた逢瀬町の上納豆内(かみなっとううち)遺跡(いせき)では、一〇七棟の竪穴住居跡が確認され、西田町と富久山町にまたがる曲木沢(まがきざわ)遺跡(いせき)や熱海町のびわ首沢(くびさわ)遺跡(いせき)などでも大規模な集落が相次いで営まれていた。この時期の東北南部では、前期とは異なり複式炉(ふくしきろ)と呼ばれる特異な屋内炉が流行した。堅果類(けんかるい)(栗やクルミなど硬い皮や殻のあるもの)を暖めて皮をむく作業場などと考えられる前庭部、火を焚く石組部、焼き物をしたり、熾(お)きを保管したりする土器埋設部からなる。このような用途であったとすれば、複式炉は、食料の種類と調理法を変える炉形態だったとも考えられる。

曲木沢遺跡では、通常の竪穴住居跡群の一画に巨大な住居跡が発見されている【】。ここからは有孔(ゆうこう)鍔付(つばつき)土器(どき)という、口縁側面に孔(あな)(穴のこと)が一周する特異な土器が出土した。孔には紐を通して皮を張り太鼓にしたとする説や、酒を入れた容器だとも言われている。

特殊な器を持っていたこの住居跡は、大型であることを考え併せると、集落の人びと全体に関わる行事や集会などに利用された、公共性の高い施設だった可能性が高い。この遺跡ではほかに妊娠した女性をモデルにした土偶(どぐう)が出土している。土偶は、集落の豊壌(ほうじょう)や人びとの再生を祈った土製品と考えられている。

集落の規模がピークに達する縄文中期の終わり頃には、中央に広場をもった環状(かんじょう)の集落が発達した。上納豆内遺跡は直径が約四〇mの環状集落【】であり、中央の広場では、まつりや狩りの相談、獲物の分配などが行われたようだ。

この時期に集落の規模が拡大する現象は、植物質食料の活発な利用に加え、集団で行う活動が人びとの結びつきを強めたことが背景にあったと思われる。

 

四 寒冷化と分散居住

縄文後期(約四〇〇〇年前~)になると、敷石(しきいし)住居(じゅうきょ)が流行する。敷石住居は住居内の一部に石を敷き始めたのが始まりで、中期後半の複式炉の周辺に部分的に敷かれたものが発達したと考えられている。住居の中ほどに四角く石を立て並べた炉があり、日常生活ができるものであるが、この時期には同時に普通の形態の竪穴住居跡も存在することから、敷石住居はまつりなどの際に利用する特殊な施設だったという意見がある。

西田町の馬場(ばば)中路(なかみち)遺跡(いせき)の敷石住居は、周囲で数ヵ所の墓標(ぼひょう)と思われる石組みが発見されているだけで、住居はこれ一つしかなかった。この敷石住居は、葬送などのまつりに使用する特別な建物だったようだ

後期の集落は中期と比較すると発見の例が減少する。この時期は、また寒冷化が進んだ頃で、拡大した集落では、それまでの領域で得られる食料ではまかなえきれず、分散して生活しなければならなかったためと言われている。

 

▽図:縄文早期の住居跡(大槻八頭遺跡) [その他のファイル/3.47MB]

▽図:​縄文中期の住居跡(上納豆内遺跡) [その他のファイル/3.49MB]

▽図:​複式炉 [その他のファイル/2.1MB]

▽図:​大型住居跡_土偶_有孔鍔付土器(いずれも曲木沢遺跡) [その他のファイル/3.04MB]

▽図:​中期の環状集落(上納豆内遺跡) [その他のファイル/2.68MB]

▽図:​後期の敷石住居跡(馬場中路遺跡) [その他のファイル/1.78MB]

(柳沼賢治)

 

3 縄文人の食生活

 

一 木の実と動物そして水産物

野山の木の実やシカ・イノシシなどのほ乳動物、臨海(りんかい)の魚介類は、縄文人の三大食料資源とも言われる。これらの食料は、温暖化によって起こった生態系(せいたいけい)の変化がもたらしたもので、生活そのものの大きな変化の要因である。

また、土器と弓矢の出現は、縄文時代を特徴づける要素であり、植物相や動物相(その場所に生きる植物や動物の種類)の変化に応じた環境への対応の結果で、道具の革新でもあった。それらは、食生活の大きな変化にも結びついた。

縄文人が摂(と)るカロリーの半分は、植物が占めていたと言われている。海に面した福井県鳥浜貝塚(とりはまかいづか)では、縄文人が食べ残したものを分析した結果、摂取(せっしゅ)カロリーの比率は、クルミ、ヒシ、クリ、ドングリなどの木の実が四二%、残りが魚を主とした肉類で、貝などは八・五%にすぎなかったという。海岸付近でさえ木の実は重要な食料だったのである。

 

二 食料の貯蔵

縄文人のカロリー摂取に大きな役割を果たし、しかも堅(かた)い皮に包まれた木の実は、保存するのにも最適であった。それを裏付けるように、縄文時代の遺跡を発掘すると、しばしばこれらを貯蔵(ちょぞう)したであろう穴が発見される。例えば、縄文早期の熱海町新田(しんでん)B遺跡(約六五〇〇年前)では、籠(かご)のような編(あ)み物とともにクルミが発見されているし、中期の富久山町妙音寺(みょうおんじ)遺跡(いせき)(約四五〇〇年前)では、大きな貯蔵穴(ちょぞうけつ)から三三個もの土器が出土したことから、食料を土器に分けて貯蔵されたと推定されている。三春町の仲平遺跡(なかだいらいせき)でも、クルミを貯蔵した晩期(約二五〇〇年前)の穴が発見されている。

このように、地面を掘った屋外の貯蔵穴は、保管するだけでなく、一定の温度を保つことができるため、保存にも役立った。縄文時代の初めごろから、木の実の特徴をよく知った施設として屋外の貯蔵穴が頻繁(ひんぱん)に利用されたと思われる。保存食は、このような穴のほかに、竪穴住居内でも、土器や籠、皮袋(かわぶくろ)などに入れ屋根裏などに置かれたであろう。

先の新田B遺跡で出土した籠のような編み物は、屋外の貯蔵穴から出土したものであるが、断面が丸い植物繊維を裂(さ)いて作られたもので、編み方をやや複雑にして装飾効果をあげている。早期にはすでに、このような入れ物が製作されていただけでなく、装飾効果にも気を遣(つか)っていた。この編み物は、大分県横尾遺跡で出土した、黒曜石の入った籠などと並んで、列島最古級であり、当時の入れ物と編み物技術の水準の高さを示している。

 

三 食料の獲得(かくとく)と調理

縄文時代になって使われ始めた土器は、煮炊(にた)きを可能にした優(すぐ)れものだった。特に、植物を潰(つぶ)した粉は、煮沸(しゃふつ)すると消化吸収が容易になるという指摘もあるように、固形物(こけいぶつ)を粉にする石皿や磨石(すりいし)の出現によって、さらに本領を発揮したであろう。土器の普及は、木の実などの植物質食料を急激に増大させる方向へと向かわせたに違いない。

中小動物が多くなった縄文時代には、素早い動きの動物を捉(とら)えるために飛び道具が必要であった。弓矢はこの欲求を満たす道具である。旧石器時代にも似たような石器は使われていたが、より鋭く速く飛ぶ石鏃(せきぞく)は、中小動物を捕獲するための洗練されたツールと言えよう。

弓矢のほかに富久山町堂坂(どうざか)の堂後(どうご)遺跡では、猟(りょう)に使用する落とし穴が、列をなした状態で発見された。これは、シカやイノシシなどが通る道筋(みちすじ)に仕掛(しか)けた罠(わな)で、穴の底には先のとがった逆茂木(さかもぎ)(先端をとがらせた木の枝などを並べたもの)」を設置(せっち)し、落ちた動物を傷(きず)つけ動きを止めるものである。中田町の赤沼(あかぬま)遺跡(いせき)や先の妙音寺遺跡では、落とし穴の底に逆茂木あるいはその一部が残っており【】、猟の実態が確認された例として貴重である。落とし穴に動物を誘導(ゆうどう)する作業は、おそらく何人かの共同作業であったことが推測される。

海では魚介類(ぎょかいるい)を捕獲(ほかく)するために、骨で作られた銛(もり)や釣り針それに錘(おもり)を付けた網(あみ)などが使われた。

内陸でも、湖南町舟津の山ノ神遺跡、逢瀬町の四十内遺跡(しじゅううちいせき)、田村町の鴨打(かもうち)A遺跡、西田町の町B遺跡などで土製や石製の錘が出土している。これらは、近くの河川や沼で水産物を捕るための道具であったと考えられる。そのことを彷彿(ほうふつ)とさせるのが、富久山町の妙音寺遺跡で出土した淡水産(たんすいさん)のカワシンジュガイである。海のないこの地域でも川や沼などで水産の食料を得ていたことがわかる。

 

四 食料への思い

狩猟・漁労・採集によって生活していた縄文時代の人びとにとって、食料を手に入れることは高い関心事の一つであった。湖南町の山ノ神遺跡では、縄文後期後半から晩期前半の土器とともに、木製の弓が出土している。この遺跡では、発掘調査前に、弓でシカを射(い)る様子を線刻(せんこく)した礫(れき)が採集された。発掘調査では、プール状のくぼみの中で弓あるいはその未製品が出土し、弓が製作されていた痕跡(こんせき)と考えられる。線刻礫(せんこくれき)は、採集品ではあるが、弓の製作に関わる儀礼などに使用されたものではなかったかと思われる

 

▽図:弓(山ノ神遺跡) [その他のファイル/1.48MB]

▽図:​縄文中期の貯蔵穴(妙音寺遺跡) [その他のファイル/3.26MB]

▽図:​縄文早期の編み物(新田B遺跡) [その他のファイル/4.97MB]

▽図:​石皿と磨石(倉屋敷遺跡) [その他のファイル/1.62MB]

▽図:​外側にスス、内側にオコゲのついた土器(妙音寺遺跡) [その他のファイル/3.13MB]

▽図:​列をなす落とし穴(妙音寺遺跡) [その他のファイル/2.55MB]

▽図:​逆茂木の残る落とし穴(赤沼遺跡) [その他のファイル/1.47MB]

▽図:​カワシンジュガイの入った土器(妙音寺遺跡) [その他のファイル/1.23MB]

▽図:​狩猟が描かれた線刻礫(山ノ神遺跡)※偽物という指摘もある [その他のファイル/1.15MB]

(柳沼賢治)

 

4 縄文時代の広域交流

 

一 地産地消

縄文時代の人びとは、環境の変化に対応する過程で、衣食住にまつわる多種多様な道具を、身近な場所で手に入る材料を使って製品化した。

竪穴住居は、打製石斧(だせいせきふ)を使用して掘りくぼめ、周辺の林から磨製(ませい)石斧(せきふ)で伐採(ばっさい)した材木を使って上屋(うわや)を組んだことであろう。また、身近な衣には、繊維や皮製品が使用されたと思われるが、出土例は決して多くなく、残っているのは極めてまれである。一方に穴の開いた細い骨製の針などは、編布(あみぬの)などを縫(ぬ)うために使用されたものと考えられる。石製のスクレイパーと呼ばれる皮をなめす道具の出土から皮製品の存在も推定される。

食料を得るための道具には、狩猟用(しゅりょうよう)として、旧石器時代から使われている石槍(いしやり)に弓矢が加わった。漁労具(ぎょろうぐ)には、骨製の釣(つ)り針や網(あみ)の鍾(おもり)などが、また、調理するために必要な土器は、近くの粘土層(ねんどそう)から原料を手に入れて、野焼きしたのであろう。

 

二 見慣(な)れない土器

縄文時代の遺跡を発掘すると、身近に手に入る材料で作られたものの他に、地元にはないものが出土することがある。それらには、数十から数百kmに及ぶ遠隔地(えんかくち)でしか見られないものも含まれている。

縄文土器という名が付いたように、縄文時代の土器には多くの場合、縄目(なわめ)の文様が付けられている。ところが、新潟県を中心に分布する中期の土器には縄目がついていないものがある。燃えさかる炎(ほのお)に似ているために「火炎土器(かえんどき)」と呼ばれる土器がそれである。

富久山町の妙音寺(みょうおんじ)遺跡(いせき)では、作り方が火炎土器に似ているだけでなく、焼き上がりの色や質感が地元のものとは思えない特徴のある土器が出土し、運ばれてきたものである可能性が高いと考えられている。このほかにも山王館(さんのうだて)遺跡や西田町の野中遺跡では、地元の粘土で作られたと思われるものの、特徴が火炎土器に類似した土器も出土している。

また、田村町の鴨打(かもうち)A遺跡で出土した土器は、底の部分がどっしりとして、これも地元のものとは違うことがすぐにわかる。底部近くを強調したこのような土器は中部高地に多い。

縄文土器は、表面に縄目と組み合わせて、別な工具を用いて文様を描いた。それらの工具の中には、近くでは得られない素材がある。曲木沢(まがきざわ)遺跡で出土した早期中頃の土器片には、海辺で採(と)れるサルボウやアカガイなどの口を押しつけた文様が見られる【】。

 

三 見慣れない石

縄文時代になると、狩猟用の道具として旧石器時代から使われていた石槍(いしやり)に弓矢が加わった。ほかにも、土を掘るときに使用する打製石斧、皮をなめすときに使うスクレイパー、皮に穴を開けるときに用いる錐(きり)などの道具がある。そのほとんどは、地元で得られる石材を加工して作ったが、まれに黒色でガラス質の黒曜石(こくようせき)が出土する。郡山館遺跡で出土した旧石器時代の石器がそれであり、縄文時代遺跡でもわずかに出土する。黒曜石は産出する場所が近くとも宮城県北部の湯(ゆ)ノ倉(くら)や、栃木県那須の高原山(たかはらやま)であるため、活動範囲を広げないと入手できなかった石材である。

石器とともに装身具に利用された石にヒスイがあげられる。ヒスイは、主として胸元を飾る装飾品で、新潟県・富山県の県境付近に限って産出する石である。見るからに宝石らしい濃緑色(のうりょくしょく)のものから、一見、宝石にはほど遠い白色のものまであるが、西田町(にしだまち)馬場(ばば)中路(なかみち)遺跡で出土したものは、形は丁寧(ていねい)に作られているものの白色の大珠(たいしゅ)である。縄文時代の人びとは、石材は雑(ざつ)なものであれ、ヒスイという石そのものに共通した価値を見いだしていたようである。

 

四 アスファルト

縄文時代に新たに登場した石鏃(せきぞく)は、矢柄(やがら)(矢の幹の部分)の先に装着して使うが、そのときに、接着剤として使われたのがアスファルトである。新潟県胎内市(たいないし)では現在でもアスファルトが地上ににじみ出ている地点があるように、新潟県や秋田県など日本海沿岸の一部で産出する。逢瀬町の四十内遺跡では土製の耳飾りに入れたアスファルト【】や、根元にアスファルトが付着した石鏃【】が出土している。鏃(やじり)と柄を接着するのに用いたのである。

縄文時代の人びとは、住居の建設や修理に必要な資材、籠を作るための繊維質植物、これらを切ったり削ったりする道具の石材、土器を製作するための粘土など、日常生活を送るために必要な物資のほとんどは、集落の周辺で手に入るものを利用した。しかし、すべてが手近な場所でまかなえたわけではない。縄文時代は、日常生活を送る上で必要な物資は生活圏内で確保することを基本としつつも、隣接する集落同士のネットワークを通して、時には遠隔地(えんかくち)から必要な物資や情報を入手していたとみられる。

このように、隣接する地域どおしを最小単位とした、物資や情報の交換、人の行き来などでそれぞれの集落が結びつく関係が広い範囲に及び、結果として、縄文という類似した文化が日本列島に展開したと思われる。

 

▽図:磨製石斧(町B遺跡) [その他のファイル/1.46MB]

▽図:​火炎土器(妙音寺遺跡)及び中部高地の土器(鴨打A遺跡) [その他のファイル/2.96MB]

▽図:​貝殻で文様をつけた土器片(曲木沢遺跡) [その他のファイル/3.47MB]

▽図:​根元にアスファルトのついた石鏃(四十内遺跡) [その他のファイル/2.99MB]

▽図:​耳飾りに入れたアスファルト(四十内遺跡) [その他のファイル/1.91MB]

▽図:​縄文時代の交流 [その他のファイル/2.23MB]

(柳沼賢治)

 

5 採集・狩猟と稲作

 

一 稲作の始まり

一八八四(明治十七)年に東京本郷弥生(やよい)町(現在の文京区)で薄手(うすで)の壺形土器(つぼかたどき)が発見された。この土器は、それ以前に知られていた大森貝塚の貝塚土器(縄文土器)とは特徴が異なるため、弥生式土器と呼ばれ区別されていたが、昭和になって、稲作をしていた人びとが使用した土器であることがわかった。弥生時代という名称は、この土器の出土地にちなんでつけられたものである。

弥生時代が縄文時代と違うのは、稲作農耕を始めたことにある。その起源(きげん)は、インド北東部のアッサム地方とそれに隣接する中国の雲南(うんなん)省と考えられてきたが、近年では中国揚子江(ようすこう)の中・下流域にもっとも古い資料が集中することから、この地域が有力視されている。稲作の技術やこれに関連する文物は、発祥地(はっしょうち)から中国北東部に広がり朝鮮半島を経由して、紀元前三〇〇年ごろに九州北部に伝わったと考えられている。以後、この時代は古墳が出現する西暦二〇〇年代の中頃まで続く。

 

二 東北の弥生時代

東北の弥生時代研究は、一九二五(大正十四)年、山内清男(やまのうちすがお)が、宮城県多賀城市の桝形囲貝塚(ますがたがこいかいづか)から出土した土器の底部に、イネの圧痕(あっこん)があるという論文を発表したことに始まる。その後、一九八二(昭和五十七)年~一九八三年にかけて調査された、青森県垂柳(たれやなぎ)遺跡の発掘で中期の水田が発見され、稲作が確実視されるに至った。

郡山では、一九六九(昭和四十四)年に東北大学が調査した大槻町福楽沢(ふくらざわ)遺跡で籾痕(もみこん)のついた弥生土器が出土していた。この成果は、水田発見までに積み上げられた状況証拠(じょうきょうしょうこ)の一つと言える。

 

三 弥生時代の先進文物

採集・狩猟・漁労を中心とした縄文時代と、稲作農耕を取り入れた弥生時代では、生活様式が異なるため出土する道具などに違いが見られる。生活全体の中で、稲作とその作業がどの程度の比重を占めていたかは定かでないが、水田跡の発見やこれと関係する道具の出土によって、東北でも弥生時代に稲作が行なわれていたことを知ることができる。

いわき市番匠地(ばんしょうち)遺跡や中山館(なかやまだて)跡では中期後半の水田跡が発見されている。また、福楽沢遺跡や田村町大安場(おおやすば)古墳の発掘調査では、木製農耕具を作るために、木の伐採(ばっさい)や加工をするのに使用された太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)が出土している。この道具は、稲作とともに大陸から伝わったものの一つである。さらに、三春町吉田遺跡、三穂田町、田村町南山田遺跡などの阿武隈山系や郡山盆地では、稲の穂を収穫するときに使う石包丁(いしぼうちょう)が出土​しており、このような道具も大陸からもたらされたものである。

弥生時代になると、新たに鉄が加わったとされるが、東北で鉄器が出土した例は極めて少ない。福島県では、須賀川市松ヶ作(まつがさく)A遺跡の小刀のような鉄製品(前期後半~末)やいわき市白岩堀ノ内(しらいわほりのうち)遺跡で鉄製の銛(もり)(中期後半)が出土している程度である。土の中では残りにくい鉄製品ではあるものの、この地域では、多くの集落で鉄が日常的に使用された痕跡は認められない。

 

四 縄文時代の伝統

九州北部では、稲作が伝えられて間もないころに、「遠賀川式(おんかがわしき)」と呼ばれる弥生土器が使われていた。西日本以西に広がったこれに類似する壺(つぼ)や甕(かめ)が東北でも出土している。それは、会津若松市墓料(ぼりょう)遺跡、三島町荒屋敷(あらやしき)遺跡、石川町鳥内(とりうち)遺跡、霊山町根古屋(ねこや)遺跡などの土器で、数は少ないながら、列島で最初に稲作を始めた地域の影響が、早い時期にこの地方にも伝わったことがわかる。

しかしこれらのほとんどは、東北の縄文時代晩期の伝統を受け継いだ土器と一緒に出土しており、中には模倣(もほう)したものや縄文をつけたものなど、そのものとは言えない土器もある。稲作を始めた地域の影響を受けながら、一方では、縄文時代の伝統も色濃く残っていた。

アメリカインディアンが使っていたものと似ているために名付けられたアメリカ式石鏃(せきぞく)は、弥生時代に北関東から東北にかけて使われた縄文時代的な石器で、熱海町水無(みずなし)遺跡や大槻町福楽沢遺跡で出土している。また、大槻町阿弥陀壇(あみだだん)遺跡、柏山(かしわやま)遺跡、田村町南山田遺跡から出土した石鍬は、縄文時代から続く土掘具(つちほりぐ)の一つである。

弥生時代の東北では鉄製品がほとんど使われず、狩猟や農耕に必要な道具が石で作られた事実からみて、鉄の入手が非常に困難だった地域と思われる。

生活用具のほかに埋葬方法にも伝統の残存がみられる。縄文時代の終末から弥生時代中期前半まで造られた再葬墓(さいそうば)は、遺体を白骨にしたあと、骨を土器に入れて埋納する方法で、最も古い再葬墓が福島県の会津から中通りにかけて発見されているため、この地域で成立したと考えられており、逢瀬町の桜木遺跡や福楽沢遺跡で確認されている。

再葬の際に使う土器の中にしばしばみられる人面付土器(じんめんつきどき)も、縄文時代の土偶のなごりと言われており、田村町徳定遺跡で出土している。

このように、東北の弥生時代には、伝統的な縄文時代の要素と新たに取り入れた文物とが混在するという特徴がある。例えば南西諸島では、本州の平安時代頃まで稲作は行なわれず、漁労を中心とした生活が残っていたと考えられている。これが示すとおり、稲作はそれが可能な気候であることが条件の一つではあるが、必ずしも絶対条件ではなく、唯一の選択肢(せんたくし)ではなかったようだ。縄文時代の伝統を残しながら稲作を取り入れた生活形態は、東北の弥生人が自ら選択したものだったと考えられる。

 

五 装身具にみえる地位

弥生時代の装身具として、縄文時代の勾玉(まがたま)に加え、朝鮮半島から新たな技術と素材の管玉(くだたま)が伝わった。柏山遺跡では、墓穴から緑色の管玉が出土している。装身具の色は装飾性の一要素で、緑色は特に珍重(ちんちょう)された。絶対数の少ない勾玉は地位の高さを示すが、管玉の場合は、その数が社会的地位の上下を表していたと考えられている。柏山遺跡の管玉は、この地で稲作による身分の上下関係が始まっていたことを示す、象徴的な遺物と言える。

 

▽図:​土器についた籾痕(福楽沢遺跡) [その他のファイル/3.08MB]

▽図:​太型蛤刃石斧(大安場古墳) [その他のファイル/2.16MB]

▽図:​石包丁(三穂田町) [その他のファイル/1.67MB]

▽図:​遠賀川式に類似した土器(石川町鳥内遺跡)(石川町教育委員会1998『福島県指定史跡_鳥内遺跡』) [その他のファイル/1.73MB]

▽図:​縄目のついた弥生土器(柏山遺跡) [その他のファイル/1.11MB]

▽図:​土偶のなごり人面付土器(徳定遺跡)(福島県教育委員会1981『徳定遺跡』より) [その他のファイル/957KB]

▽図:​管玉をつらねた首飾り(柏山遺跡) [その他のファイル/1.23MB]

(柳沼賢治)

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