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郡山市近代水道の父 今泉久次郎

ページID:0001643 更新日:2021年12月2日更新 印刷ページ表示

郡山市水道史の語り草「水道布設議案可決」(明治42年4月8日)

明治42年2月、町議会に対し、郡山町当局から近代水道布設案が提出された。当時の郡山町の予算は3万円のところ、工事費86,219円をはじめ、土地買収費・管理費・町債利子償還費・予備費を含め、113,850円という、郡山町空前の膨大な予算であった。財源は、全て起債によるものだった。

この予算案が町議会の正式議題として審議に付されると、その可否をめぐって議論がたたかわされることになる。町予算が3万円であるとき、15年もの間、毎年12,500円を支払っていくことは、議員にとってもその可否に大きな決断を要した。

当時の町議会は、議員数が23で、このうち原案賛成派が11名、反対派が12名で、開会前にすでに1票差で原案は否決される見通しであった。当局は、是が非でも原案を通すべく、最善かつ苦肉の方法をとって、ついに可決に持ち込んだ。

今泉久次郎の胸像の写真

当時は、制度的に町長が町議会の議員を兼ねることが出来た(町長は就任のときからこうした事態を予想してあらかじめ議席をもったという)。そこで、町長が一議員として議席につくことによって賛成・反対の同数の勢力とするとともに、当時の助役国分伴吾を議長席につかせたのである。果然、議場は騒然となり、傍聴者もしばしかたずを呑む場面が展開された。

しかし、町長と議長(助役)は賛否両論の激論のあと採決にもちこみ、「賛否同数の場合は議長之を決す」という条例を唯一の武器として、議長職権で強引に可決成立させたのである。

この町議会は、明治42年4月8日に開かれたが、この日の審議・採決は郡山の議会史上においても記録的な一ページに残るものであった。もちろん、反対論者の全てが、すなわち水道施設不要論者ではない。彼らの立場は、当時の郡山町の財政とその負担能力を考慮して、時期尚早論を唱えたものであった。特に反対派の中に、さきに多田野水道創設のために努力した永戸・甲斐山・今泉久三郎(前町長)らの先覚者たちがいたことは、右の反対派の立場を十分うかがわせるものである。したがって、ひとたび改良水道の実現が決定すると、反対派の議員も新水道布設促進のため、積極的に努力した。

その後まもなく、水道設計に重大な欠点が発見されたので、町長は追加予算を提出した。その欠点とは、配水管が陶管であったことである。町長は「水道事業の如きは、永久施設であり、将来に悔いを残してはならない。永遠の大計を誤っては真に町の利益にあらず」として、鉄管施設に改めることとし、工費36,450円の追加予算を計上した。かくして、町当局は、先の議決とあわせ、総額15万円の膨大な予算案に成功したのである。

水道にかける思い 今泉アサ(久次郎の子顕治の妻)の思い出話から

『郡山市の水道創立50周年の式典が盛大に開催されたことは、誠に喜びにたえません。水道創立功労者の一人である父久次郎も、さぞ、地下でよろこんだことでしょう。この機会に当時の事情を知っているものの一人として、父久次郎をめぐる水道創設秘話を、少し述べてみたいと思います。

なぜ、町長であった父が、水道のために一生をささげたかと申しますと、簡単にいえば若松連隊を郡山に誘致すべく懸命に運動をしていましたが、最後に水の問題のために若松に変更されました。それが、水道を引いた一番の理由です。

ところであのころは、日露戦争のあとで軍国主義華やかな時代でしたから、郡山町でも町発展のために連隊を誘致すべく極秘に運動しておりました。新聞記者にかぎつけられて、他町に知られるのを恐れ、口の堅い橋本宗治郎の引く人力車に乗って日和田や須賀川に行き、そこの駅から汽車に乗って新聞記者の目を逃れていました。

ある日役場から帰られたので、急いで晩酌の用意を整えました。独酌で1、2杯口にされてから、「今日の酒はまずい」といわれますから、「どうしたのでしょう、いつもの酒屋なんですが」と申し上げましたら、「酒が悪いのでない、気分が面白くないからだ。散々お前に苦労掛けたが、連隊はだめかも知れない。実は今日、東京から役場に電報が入ったのだが、あす水質検査に行くとあった。一番恐れていた水質検査に出張するとあっては万事休すだ。郡山は地の利を良いのを誇りとして九分どおり成功したのだが、水といわれれば自信がない。」と大変な力落としなのです。果たして、水質検査の結果は落第でした。郡山に代わって若松29連隊が編成されたのです。

それがショックとなり、一大決心をしたものです。そのとき義弟菊池忠蔵は、北海道岩見沢炭鉱株式会社に勤務しておりました。幸い帝大の工科土木出身でしたから、菊池を呼んで水道の建設について、教えを受けました。水道についての書類が一切出来ましたから、早速町議会に提案しました。ところが全員猛反対、致し方なく毎日役場から早帰りして議員の私宅を訪問し、ようやく半数まで賛同を得ましたけれど、どうしても一人足りません。父はいつも町議員の資格を持っておりましたから、そこで、一町議会議員となって国分助役を議長席につかせ、歴史的な決定をしたのです。水道建設案は、立派に決議されましたけれど、それからが大変です。

元町議会議員陣野捨蔵氏が町民大会長となり、郡山町長弾劾演説会も銘打って毎晩の町民大会です。各町内の大きな家が会場となり、開催されました。ビラは至るところに張られていますから、街に用事があって出かければ、必ず弾劾の文字が目に入ります。母は、その弾劾という字がたえられないと墓参にも出かけなくなりました。

その弾劾の理由は、「町には金がないはずだ。膨大な予算を組んで、町民からは高い税金を取り立ててその金で作るつもりだろう。高税にたえかね逃げ出す者が出るのは前もってわかっている。人口三万人分の水道をつくるつもりというが、人口が増えるどころか、少なくなるから、税金はなお多く取り立てられる。一日も早くやめてもらうことだ」と、いまならリコールというところなのでしょう。

しかし、父の決意は固く、家族の者には「上水道と下水道さえできれば、あとはだれが出たって市になるのだから一切町の仕事から手を引く。町に関係している限り財産を減らさなければならぬ。子孫にはすまないと思う」と酒をたくさん飲んだときにもらしておりました。』

郡山市水道50周年記念式典時(昭和37年)

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