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郡山市水道のあゆみ(江戸~明治)

ページID:0005675 更新日:2021年12月2日更新 印刷ページ表示

1 皿沼水道…郡山の水道のはじまり

皿沼水道分水槽の写真

郡山村は享保時代(1720年代)になると、人口約1,400人の集落を形成し、町並みも次第に整えられ、街道往来の大名の休憩、宿泊所ともなり、井戸水等だけでは飲料水が不足してきました。
このため、享保7年(1722)にかんがい用のため池であった皿沼の水を貯水池として、その堤下から木樋を出し分水槽を作り、数戸ごとに共同で1本の竹樋を井戸に導き、各戸に引水しました。
しかし、水質、水量とも不十分なものであり、夏には水枯れ、腐臭の問題が起こりました。

2 山水道…新たな水道を求めて

山水道木箱の写真

明和時代(1760年代)になると、人口が約2,000人に達し、また、皿沼がかんがい用水であるため、田植時の減水等から、飲料水不足が生じました。
このため、明和7年(1770)、清水台、細沼等の高台地の水源地に新たに井戸を堀り、そこに3メートル余の暗渠を作り、その上を松材、杉皮、粘土で覆い、松板で作った原水待箱に水を集め、自然流下で引水しました(山水道)。しかし、引水するには莫大な経費がかかるため、使用していたのは、当時の資産家10軒くらいであり、付近数百戸の家はもらい水をしていたといわれています。

3 多田野水道…良質な水道を求めて

多田野水道木管の写真

明治20年(1887)頃の郡山は、製糸業が盛んで、さらに鉄道の開通等により物資の集散地となり、町の人口は約7,000人まで増加しました。
飲料水は、皿沼水道と山水道を使用していたほか、井戸が約40箇所ありましたが、必ずしも飲料水に適したものではないため、極度の飲料水不足をきたしました。特に、製糸業者にとっては、水の良否が企業の業績に関係するため、良質で多量の水を求め、多田野村の湧水を郡山へ引水する新水道布設計画をたてました。
そして、当時の富商が資金を出して「郡山水道会社」を設立し、明治22年4月着工し、木管約10キロメートルをつないだ多田野水道が明治23年5月に完成しました。
明治23年に公布された水道条例により、水道は民間会社では経営ができなくなったことから、明治25年(1892)町に管理が引き継がれ、明治45年、近代水道の完成により廃止されました。

4 近代水道の創設…明治45年4月1日、全国で23番目の通水

創設当時の豊田浄水場の写真

多田野水道木管は、明治30年(1897)を過ぎると腐りはじめ、漏水や異物混入がおこるなど給水に支障をきたすようになりました。このころの郡山の人口は急増し、水の需要も増加の一途を辿っていましたが、当時の給水状況は全戸数の1/3にも及んでおらず、水不足は深刻な状況となり、かつ、主に以下の社会的諸条件により新水道施設の建設が促進されました。

  • 保健衛生の面から、伝染病の発生が多くなってきたこと。
  • 軍事上からみて、陸軍の宿泊地として、また物資集散地として恒久的設備が必要となったこと。
  • 工業振興のため、工場の誘致が計画され、特に製糸の町として、良質な水が多量に必要とされたこと。
  • 鉄道の敷設により、旅客人数が増加したこと。
  • 防火用水の確保により、町民の財産保護を図るため。

配水管布設工事(現在のフロンティア通り)の写真

明治33年(1900)、再度町長に就任した今泉久次郎は、「飲料水がこのように不備では郡山の発展はありえない」と新水道の建設を決意しました。
明治40年(1907)2月、多田野水道の湧水と猪苗代湖からの安積疏水の分流を水源とする近代水道の布設案を町議会に提出し、可決されました。
しかし、町の総予算が3万円という時代に、工事費が約15万円(工事完了時18万円)という郡山町空前の予算であり、明治42年(1909)4月、起債及びその償還方法の変更に関する議案が町議会に提出されると、賛成、反対が同数となりましたが、今泉久次郎町長の勇断で可決され、近代水道の建設が始まりました。
そして、明治45年3月、原水を下の池(豊田貯水池)に導水し、下の池を沈でん池兼貯水池とし、コンクリート造の緩速ろ過池3池、配水池2池を設置した豊田浄水場が完成しました。
明治45年4月から全国で23番目、東北では秋田、青森につぐ3番目の近代水道として給水を開始しました。

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